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ゆとり教育と言うと、昨今では教育の失敗、学力低下の主因のように語られる。
実際の所、その意見は正しいかどうかは分からない。

しかし、ゆとり教育は本来望まれていた形とは全く違う形で終えたことは確かである。
それは、ゆとり教育が成果をあげるあげないということではなく。
詰め込み教育への批判として生まれたゆとり教育が、
詰め込み教育の問題点を全く改善できない方法だったと言うことである。

そして、その原因として私が考えるのが、教師の教育力不足である。

これを、以下の順に追って説明させていただく。

・1 ゆとり教育は失敗か。
・2 ゆとり教育とは何だったか。
・3 詰め込み教育とは。
・4 本当に望まれていた教育。
・5 足りなかったもの。
・6 これからの教育に必要なこと。


・1 ゆとり教育は失敗か。

さて、ゆとり教育は学力低下を招いたと世間ではまことしやかに語られる。

その理由として、有効なデータが無いためである。
国内学生の学力がどう変化していったかを、全く統計を取っていなかった。
全国学力テストを全力で阻止していたのだから。
しかし、それ故に、ゆとり教育で学力が下降していないと言う証拠もなく、
ゆとり教育批判を回避出来なくなったと言える。

有効なデータとして扱えるのは全国模試やセンター試験だろうか。
しかし、センター試験などは高校生対象であり、義務教育範囲とは別とも指摘できる。

因みに、センター試験は平成9年より、平均点は下降しているため。
学力の低下は正しいと言う論の一助となるだろう。
ただし、芸術面や道徳面への影響は、分からないため、失敗かどうかは、私的には明言しない。



・2 ゆとり教育とは何だったか


ゆとり教育とは何であったか。
私的な考察で思いついた言葉だが。
一番判りやすい言葉で言えば「教育しない教育」である。

ゆとり教育は、教育時間を削り、児童生徒に教育する量も減らした。

私見を語らせていただければ、そんなものは教育ではない。
教育しないことで人が育つのならば、学校など必要ないのであり、義務教育など望まれなかった。
教えるからこそ、未熟な者達は成熟できるのではないだろうか。


・3 詰め込み教育とは。

では、詰め込み教育とは何であるか。
「説明しない教育」と言えるのではないか。

教育において、覚え込むことを最も効率の良い方法として考え。
年号人名から公式まで、ただ覚え込ませることに重点を置き。
記憶と実戦の反復試行によって、さらに記憶を強くする。

この方法は、脳の働きを考えた上で正しい方法ともいえる。
記憶というのは、どれほど不可解でも何度も繰り返し記憶し思い出すことで、覚え込むことが出来る。
知識の絶対量を増やす上で労力を少なく効果を上げる。
コストパフォーマンスの良い手段である。

しかし、反面として応用が利かない。
理屈がわからないために、教えられた者同士の関係が分からず、
一つずつでしか活用できないことが往々に起きてしまう。

・4 本当に望まれていた教育。

詰め込み教育に対して望まれていた教育とは何か。
もちろんそれは「説明する教育」である。
言い換えれば、「理解できる教育」だ。

例えば台形の面積の求め方。
ご存じであろうが、台形の面積の求め方は。
『(上底+下底)×高さ÷2』
である。

これについて、私の時代の私の学校では理由を全く説明されなかった。
台形の面積をどうして、こういう式によって求めることが出来るか。

これは、同じ形の台形を二つ用意して、片方を上下逆さにしてくっつけるとわかる。
一辺が上底と下底の長さを足した平行四辺形が出来る。
それに高さを足せば、その平行四辺形の面積が求まる。
その面積を二つに割れば一つの台形の面積が出てくるということである。

求められていた教育というのは、逐一、その理論を体系立てて説明して行く。
数学で言えば1+1を理解すれば、あとは全ての説明が理解出来る。
歴史で言えば人類の誕生を知れば、あとは全ての人類の事件の原因と経緯が理解できていく。
そう言う授業・教育だったのである。


・5 足りなかったもの。

その教育に足りなかったもの。
それは、三つある。
第一には政治家の理解。
第二には教育時間。
第三には教師の力量。
この三つである。

政治家の無理解は言わずもがなである。
詰め込み教育に対する批判。
そこには、過剰なほど教育することに対する批判が強くあった。
それゆえに、教育をしないことを重要なこととの一つにしてしまった。
もちろん、そこには教師達の思慮の足りない要望も強くあったし、それが原因でもあっただろう。
それを実現してしまったのは、政治家に教育に対する理解が無かったことが遠因だろう。

教育時間。
これは、非情に重要な問題である。
説明すると言うことは、考えれば分かるが。
ただ記憶させるだけの数倍の時間が必要なのである。
つまり、本来詰め込み教育よりもより教育時間が無ければならないはずなのだ。
教え込むべき事柄の絶対量を減らしたとしても、
教育時間を減らして、より理解できる教育などと言うのは、理想論を越えて妄言の範囲である。

最後には教師の力量が問題となる。
これが、一番の問題であり、
これが改善されなければ教育方法を変えようが何もどうしようもなかったりする。
教師というのは、実際の所、
自分たちが教育していることを理解していない。

教師自身が教える内容を知識として詰め込まれてしか居ないことが多い。
そも、例えば教育学部と名の付く場所で何を教えているか。
学校で教えることを、理解できるようにすることは教えていないと言って良い。

教師自身が、自分たちの教えることを考える力、内容を説明する力を持っていないのだ。
それがどうして児童達に授業内容を説明し理解させることが出来るだろうか。

もちろん、理解して説明できる人達も現場には多くいる。
しかし、それは自分たちの力で、在学中もしくは現場で獲得したものであり、
そのような力を持つように組織だっておこなわれている現状は無いと言える。

それ故に、たとえ教育量が減らされても、
なにも児童達は理解できない授業を受けることに成ったのだ。

これらのために、望まれていた「児童達が理解できる教育」と言うのは、
その当初の望みとは全くかけ離れた「ゆとりのある教育」として、
説明もしない、そも教育すらしない、教育も理解できない、そんな教育が行われてしまったのである。


・6 これからの教育に必要なこと。

これからの教育に必要なことを私的に挙げさせていただければ。
やはり、組織だった教師の教育である。

現在、教員免許は更新制となり、力量不足の教師は研修をうけることになっている。
教員免許を取得する単位にも徐々に変化が入ってきている。
現場の教育を受ける・見学する機会が増えているのだ。
それはこれから徐々に効果を出していくことだろう。

しかし、未だに、自身の専攻分野への初歩的な理解が深まる施行が取られているとは言いがたい。

児童の学力をあげるためには、まず教師の学力をあげなくてはならない。
教育方法だけいきなり変えても、実がなにも伴わないのである。
教育方法の変化へと対応できる教師の育成、これが教育現場に最も必要なことである。
として締めさせていただく。
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コメント

禿しく同意します。
そして教育者は、自分が児童の将来に与える影響についても理解した方が良い。
今の日本には一部には素晴らしい”真の教育者”が居るが、職業先生が多すぎてダメダメだと思います。
特に小学校の教員には知識・人格・才能が必要だと思いますね。
2009/12/03(木) 11:37 namisen URL [編集]







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